科学史、音楽、露西亜、そして、、、

アクセスカウンタ

zoom RSS 文章を書くのは無理やり何かを搾り出す類の作業かもしれない

<<   作成日時 : 2006/05/23 23:34   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 差しさわりのある言い方かもしれないが、周囲の研究者・大学院生を見ているとある類型の人がいるのに気づくことがある。彼あるいは彼女は資料を集め、よくそれを読み、あるいは観察しているのだが、にもかかわらず、論文をまとめることができないまま何ヶ月も何年も悩みっぱなしなのだ。私などよりよほど勤勉で史料をよく読んでいると思われる人がいつまでも論文を書けない/平板で主張のない論文しか書けないのを見て首をかしげるときは時々ある。
 これはなぜかと考えてみるに、半ばあてずっぽうで言うのだが、彼らはまじめすぎるあまり文章を「創り出す」ということをしないからではないだろうか。データの羅列ではない、論文のようなまとまったストーリーが必要なものを書く時には、時にはひねり出してでも表現を編み出した上で何らかの主張を行い、一つ一つのデータの間を埋め、説得力を持たせるようにすることが不可欠なのかと思われる。ところが彼らはそういうことを思いもしないまま、膨大なデータの前でどうそれを整理づけていいのかわからなくなってしまうのだろう。
 渋澤龍彦は文章作法を説いたエッセイの中で次のようなことを述べていた(すみません、出典を今思い出せない)。文章とは頭の中にある想像や思考を書き付けるものではない、それは書く過程で無理やりにでも搾り出してくるものである、と。むろん、渋澤の書くような文学的な文章と論文は違うとは思うが、案外、普通に思われているほどの差はないのかもしれない。私自身こうしたブログの文章(論文ではないけれど)を書く際に、おおよそのテーマは決まっている時であっても細かい文章表現や話の落とし方などは書きながら考えていく場合が多いし、書く途中で思いもよらなかった表現を見つけたりすることも多い。
 
 以下あくまで一般的な印象だが、日本人が書いた論文には、「引用文」の部分がきちんとしていても「地の文」が魅力的なものが少ないように思う。つまり資料の裏づけ等は堅実で、資料を長々と引用したりするのだが、考察や話の持っていきかたが平板で眠気を催させたり、さもなくば強引あるいは奇をてらっただけで白けさせられたり、そのどちらかのことが多いようだ。これは生来われわれに帰納法的思考が不足しているせいだろうか。小学校以来、「思ったことをそのまま書けばいい」と作文の時間のたびに言われるばかりで人工的な文章の技巧を教わっていないせいだろうか。
 いずれにせよ、しっかりした「地の文」を書くには長年の経験、バランスの取れた見解、それの前提としての膨大な知識、が必要なのはもちろんだが、とりあえず何か気の利いた言い回しでも自らひねり出してみるという心がけがなければ初歩的な「地の文」すら書けないのではなかと思う。

 まじめすぎるタイプの人は、時には「文章を書くことは無理やり何かを搾り出す過程である」というふうに考えてみるのもいいのかもしれない。こうしたことは大変に思えるが、、(無責任に言い放つと)、たとえば漢文や欧文で古典的に確立している文章類型を真似てみることを試みれば多少はものを書くことが楽になるのではないか。

 私はどうするか? 見てのとおりの悪文だが、私については勘弁してください^^

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
文章を書くのは無理やり何かを搾り出す類の作業かもしれない 科学史、音楽、露西亜、そして、、、/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる