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zoom RSS 伝統は閉鎖的な場所では育ちはしない―教育基本法改正案の愚劣さ

<<   作成日時 : 2006/06/21 23:36   >>

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 教育基本法改正の動きが物議をかもしている。しかしよく言われるように、改正案はきわめてあいまいで主眼がよく見えない上、「左巻き」の人々が主張するように、教育における強権主義、あるいは現代の法治国家の根本原理との矛盾を抱えた体制、への道を開いてしまう恐れもある。
 このエントリーでは、そのような言い古されたことはあえて繰り返さない。改正案のうち「愛国者」にとっても具合が悪いと思われる点を指摘しよう。私は右翼ではないが、まあ、右からの逆襲です。

 改正案で重要なのは「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた郷土とわが国を愛する」人材を育てねばいけない、という点だろう。このうち問題は伝統、である。(文化、は何を指すのかあまりにもあいまいな言葉なのでここでは相手にしないことにする)これが育まれるのは「郷土やわが国」によってであるというのはもっともらしいが実は嘘っぱちであり、このような嘘を学校で仕込もうとする策は国家を繁栄させようとする目標と矛盾する、ということを指摘したい。

 伝統は、いかにすれば育てられ、現代に生かされるのか。それが古色蒼然とした、ショーケースに収まるようなものであれば、そんなものをあえて有難がったり、まして学校で教えようとしなくともよい。伝統が貴重なものとなるのは、現代においても通用するように、そのエッセンスが鍛えなおされ、変形させられたうえで利用される場合であろう。たとえば現代の芸術家が自国の伝統を生かした作品を作ろうとするとき、彼あるいは彼女はよもや数百年前のものをそっくりコピーしようとなどしないだろう。
 逆説的に聞こえるだろうが、伝統が生き残り成長するのは無菌室のような場所ではなく、外部からの雑多なものを受入れ、それらにもまれることができる場所においてである。西洋音楽の歴史を考えてみよう。それらが中世に教会の中で歌われていたような形のままであればそれは早晩行き詰まりを見せ、現代に継承されることはなかっただろう。数百年にわたって西洋音楽が脈々とした伝統を形作り生きながらえてきたのは、世俗音楽、隣接の芸術分野(文学、美術など)、民族音楽などといった「外部」から常に刺激を受け、それを取り込んできたからである。音楽に限らず、料理、建築、宗教等々、あらゆる文化のジャンルにおいて同様の事例が観察されるだろう。
 日本の伝統、小学校から尊重させねばならないほどの伝統なるものがもしあったとしても、それは「郷土や国家」をむやみに尊重することによっては、存続させられるどころか、逆に、死んだ、単なる守旧的なものになってしまう。郷土や国家(特に日本という国)は多くの場合、境界線を設けてその中に閉じこもるものであり、そんな場所では伝統は生きたものとして存続させられないのだ。つまり、改正案が言う「伝統と文化を育んできた郷土やわが国」という言葉は端的に歴史的に見て嘘なのだ。それどころか、郷土や国はしばしば伝統を骨抜きにし、形式的な、抜け殻のようにしてしまう。
 伝統が大事でそれを育まねばならないというならば、求められる人間は次のようなものだろう。すなわち、外部との交流を進んで受入れ、それに飲み込まれることもなく、他者に対して寛容で、雑居の状態に耐えられる柔軟性と強靭さを持った人間、である。チンケな類のナショナリズムに駆り立てられるようなことのない人間である。教育基本法の改正がもし必要だとしても、それはこのような人間を育てるべしという路線によってなされるべきである。

 ついでながら言っておくと、ことは文化や伝統に限らない。国家そのものにしても、閉鎖的でむやみに自国の伝統だの特殊性だの愛国心だのをたきつけてばかりいるような国は長続きせず、魅力を放つこともない。強い国家・魅力ある国家とは結局のところ、寛容さを内包し、雑然とした状態をうまくさばくことができる類の国である。たとえば、ロシアにおいて十月革命以後ボリシェヴィキが存続勝利した理由を考えてみよう。さまざまな理由があったが、大きい要因の一つは、ロシア帝国やその残党がロシア正教という特定(国の構成員全員が信奉しているわけでもない)宗教を背景としたツアーリの権威にその正統性を置いていたのに対し、レーニンらはあらゆる民族の平等と解放を大前提にしたうえで、より普遍的な原理(共産主義)を国家の目指すべき目標として掲げたからというところにある。ここには書ききれないほど色々なことがあった末にソ連もまた「諸民族(ロシア民族をも含む)の牢獄」と堕してしまったが、しかし自らの理念の新しさ(若々しさ)と普遍主義を大きく前面に掲げて出撃したレーニンらのやり方は、新生国家を運営していく際の戦略としては全く正しかったのである。アーリア民族のための閉鎖的国家でしかなかったナチスドイツが12年で滅びたことと対比させてみると面白いだろう。

 私は、そもそもが曖昧模糊たる「日本文化」なるものに対する愛着を教育によって植えつけるのは、不当云々以前に無理ではないかと思うのだが、ともあれ、現代日本の堕落を「伝統」を生かす形で救いたいと考えている方々にも、上述したようなことを考慮に入れてもらえれば幸いである。

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