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zoom RSS 進化に関する講演を聴く、あるいは、現代の科学哲学者に若干もの申す

<<   作成日時 : 2007/03/07 01:04   >>

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 午後、大学に自転車をこいで行き、進化概念に関する哲学研究者の講演を聴く。最近、生物学の哲学に少し興味を持っていることもあり、大変いい勉強をさせていただいた。

 若干のとりとめない感想を言うと、
 機械論と全体論(holism)の対立というような観点は現代生物哲学でも変奏された形でもちこされているのだなということがわかった。
 スピーカー、聴取者の人々は、総じて英語で書かれた科学哲学の論文の読解に忙しい。それは理解できる、科学哲学も、いまや精密で専門的な、多忙な分野になった。
 しかし、たまには(息抜きをする気分でよいから)エンゲルスなど、邦訳でよいから読んでみてはどうだろう。
 実際のところ、自然哲学をやっている方々が、19−20世紀のヨーロッパ大陸の哲学者が議論していたことを素通りしていることに、一抹の危機感を抱いてしまう。だって扱っている問題や切り口は、同じ哲学である以上、さほど変わっているわけではない、そして進化に関しても弁証法的な思考に慣らされた哲学者は、すでに100年前の時点で、今よりもひょっとすると洗練された考えを先取していた(ように私には思える)のだから。

 「こうした議論に似た議論ははもうとっくの昔にやられている」こと。とはいっても「私の言うことはこの点で新しい」ということ。その双方を明らかにすることは哲学者にとって決して無駄ではない、という考えは成り立つのではないか。つまり、哲学史はやはり哲学者の必須科目である、自分の立ち位置を確認するためにそれを学ぶべきである、という視点に立つならば、
 たまにはドイツ語やロシア語で書かれたものをー邦訳されているものにざっと目を通す程度でよいからー読んでみても悪くはないのではないだろうか。

 正直なところを言わせていただくと、大陸ヨーロッパの哲学(19世紀のもの以降)が現代日本で無視されがちなことに関しては苛立ちを覚えないでもない。こうした個人的な感覚がこの意見に影を落としているかもしれないが、しかし「温故知新」という古めかしい言葉を、才気あふれる若い哲学者たちに対して言うことそのものは無益ではない、というようにも一方で感じている。

 哲学では多くの話題が表現を変えて数千年にもわたって何度も改めて取り上げられる。そのこと自体は哲学という分野の特質であるし、かまわない。しかし「自分の考えは本質的にどこが新しいのか」と問うこと、「以前取り上げられたものと似ている」「でも違う」ということを明確にすること、は無駄な作業ではないと思うのだが・・・そして若い哲学者にとっても、英語以外の言語で100年前に書かれた文書をも見直してみることは無益でないと思うのだが・・・

 門外漢の愚痴に近い言い分ですが、あるいは私のほうこそ科学哲学の現状をわかっていないのかもしれないが、あえて言ってみました(後輩に対する傲慢な言いがかり、と思わないでいただきたい。だって私は数歳下の人に対しても科学哲学の分野では「先輩」などではなく「素人」に過ぎないのだから)。頓珍漢な言いがかりでも、プロであればそこから何かしら教訓を引き出すのでは、という希望に裏づけされ、こんなことを書いています。失礼いたしました。

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