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zoom RSS ヴェーバー読解をめぐる羽入―折原論争、あるいは、現代日本における人文社会系学問の堕落?

<<   作成日時 : 2007/04/17 00:01   >>

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 アカデミズム内での動向に関して、最近気になることはいろいろあるが、そのひとつが羽入―折原論争(論争といっても今のところ一方が批判するばかりで、一方が批判に答えていないのだが)である。これは2002年にミネルヴァ書房から出版された羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪』に対して、ヴェーバー専門家の折原浩氏が、当該書物に見られるヴェーバー読解のずさんさ、不適切さ、著者の学問に対する姿勢にある根本的な不真面目さ、等々を激しく批判する論議を展開し、これにからめて『ヴェーバー学のすすめ』(未来社、2003年)をはじめとする著書を3冊(数え方によってはそれ以上)も著してしまったというもの。折原(以下敬称略)は羽入および彼に学位を与えた出身研究室に釈明と返答を求めているが、現在のところ両者とも応えてはいないようである。(参考ウェブサイト
 この論争については私も以前からとある親しい人より聞き及んでいた。折原の著作を書店で手にとって見たこともあるのだが、正直、粘着気質の老学者が若手を叩こうとしているだけではないか、と根拠なく感じていただけで、しばらくは気にとめていなかった。しかし10日ほど前だろうか、ヴェーバーの著作を久々に紐解いたことをきっかけに、図書館で折原のこの件に関する著作をじっくり読んでみて、ここにはかなり深い問題が隠されていることに気づいたのである。
 折原の著作(私が読んだのは『学問の未来―ヴェーバー学における末人跳梁批判―』(未来社、2005年))は専門的でかなり大部であり、読むのに骨が折れるが、良書が常にそうであるように骨子は単純かつ明快だ。羽入のヴェーバー読解および論文執筆の際の姿勢は不健全である。それはヴェーバーという権威を引き倒そうという悪意に基づいており、その予断に従って、原著者の意図や文脈に即さない「擬似問題」を自ら捏造し、巧妙にみせかけた不適切あるいは誤謬だらけの手法をもって、ヴェーバーの「知的誠実性のなさ」を発見したと息巻いている。
 本の読解に関して、羽入は悪い意味での「ディレッタント」だということであろう。これを読んで私もわが意を得た思いだった。というのも、私自身、2ちゃんねるに巣食う連中がろくに読めていない本をめぐって針小棒大あるいは居丈高な「断言」をやってのけることに対して苦々しく思っていたし(最近は不快になるだけだとわかっているので2ちゃんねるのその手のスレは見ていない)、私に対して含むところがあるとしか思えない「ディレッタント」から、論文に対する不当かつ瑣末主義的で非本質的な非難を浴びて憮然とした経験があるからである。まあ私と違って地下のヴェーバーはディレッタントの見当違いの非難など痛くもかゆくもないかもしれないが、とにかく人文社会系学問の業績に対して発言する人間は、最低限のテクスト読解力を身につけ、対象に即した読書ができるようになってからものをいえと(若干傲慢に響くかもしれないが)言いたくなる気持ちは持っていた。
 折原は、羽入の手法の不適切さや誤りを懇切丁寧に指摘し、彼の中にあるどす黒いルサンチマンまで想定した上で、ことは羽入個人にだけとどまるものではない、近年の人文系諸学問をめぐる社会的環境(大学院教育、学位審査、褒章、書物流通のあり方)に通低する問題が表出しているのだ、という。
 耳の痛い話である。私自身、先輩の研究者などに対して日ごろから「学者だったら論文を書け」というような生意気なことを言い放っている者だが、それでいて、研究者の評価基準における昨今の業績数至上主義的な趨勢に踊らされているだけかもしれない。さすがに、「何が何でも論文の数を」と、どうでもいいようなものや学問的に不誠実なものまで論文として書くほど堕落はしていないつもりだが、そうした道に転落する可能性は常に頭に入れ、自ら戒めねばと思う。
 しかし、折原の側に問題がないわけではない。彼は自らの見解を広めるべく一種の政治的キャンペーン活動を行っているようだが、政治行動に打って出るには、彼の文体・語法はその目的に対して逆効果に働きかねない(拙劣なのではなく、むしろその逆に、あまりに見事な文章でありすぎるのが良くない、とでも言おうか)。その文章はあまりにもヒートアップしすぎているし、時に論敵の人格に対する攻撃ととられるような表現までも含んでおり、読者をして「折原は羽入がヴェーバーに対してやろうとしたことを羽入に対してやっているのではないか」という疑惑を呼び起こさせかねない。また、折原が若くして東京大学で教鞭をとりはじめ、定年までそこにとどまったアカデミズム内での頂点に立つ「大御所」であることを考えると、彼が弱者の「ルサンチマン」に対して辛辣な態度をあからさまにとったのは、反発を呼びかねないという点でまずかったように思う。もう少し自身の立ち位置を自覚のうえ、政治的戦略を組み立てても良かったのではないだろうか。また、これは主観的な感想に過ぎないかもしれないが、ヴェーバーの「素人」が簡単に羽入書にだまされてしまうと想定しているなど、専門家の傲慢さの現れではないかと思わせるところもある。
 いずれにせよ、この論争は、「学問の役割とは何か」「専門家の責任とは何か」といった問題に対して深く考えるきっかけを与えてくれる。今後も目が離せない。
 
 ところでSTS関係者の方々、この論争は(自然科学や技術を対象にしたものではありませんが)上述した問題意識を持つ方へのいい事例となりえるのではないかと思います。誰か研究しませんか? 誰もやらなければいずれ私自身が取り上げて、STS関連の研究会ででも発表しようかしらん、などと考えています、いやマジで。

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