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zoom RSS 市民科学研究室講座(原爆開発の歴史に関する)に参加

<<   作成日時 : 2008/08/03 01:51   >>

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 暑い中、久々にNPO法人・市民科学研究室の催しに行ってきた。去年から話題沸騰のドキュメンタリー映画「よみがえる京大サイクロトロン」を上映して、それに基づいて討論しましょう、という企画
 映画そのものは「よくやった」、ということで済ませまして(近しい研究仲間の作品なのに申し訳ない。長く論評している余裕がない)、そのあとの討論―主として第二次大戦戦時下(終戦直後も含む)の物理学者の軍事研究協力をどう評価するかに関して―から感じたことを、忘れないうちに書き記しておこう。雑駁なメモですが。

 議論に通底する一つの前提がまず気になった。物理学者が行った、時の政治権力あるいは時局一般の要求に対しての妥協について、生存権等を持ち出しながら擁護しようとする側にしても、協力姿勢を批判しようとする側にしても、一つの共通基盤にのっとって議論していることに変わりない。そしてこの土台はグローバルに共有されているものかは、はなはだ疑問なのである。私が言いたいのは、軍事・国防への協力について自動的に、弁明を必要とするようなもの、おおっぴらに擁護できないものとみなす倫理的判断のことである。これは間違いなく、我が国が自分から侵略を行ったあげくに敗戦した国であること、戦後も陸の国境を持たないという地理的な幸運のもとで米軍に国防を一任していて、地政学上・軍事上のリアリズムが根付かなかった(この傾向は現在まで続いており、対米軍事同盟さえ維持していれば北東アジアの安定が保たれるかのようなばかばかしい意見となって表れている)ことと密接に関連しているだろう。
 無論、我が国の議論の土台が特殊であるからといってそれが正当性を持たない、ということにはならない。しかし、例えば外国人と議論するときなど、そもそもの最初から話がかみ合わなくなる可能性はあろう。原爆開発に科学者は協力した、いやあれはあくまでポーズだった(あるいはそんなつもりはなかった)、という日本人同士の議論を聞くと、いつも私は、ソ連・ロシアではこうした話はどうなるだろう、と考える。あの国では、対独戦に際して軍事研究に科学者が協力したことが何か非難されるようなこと、隠すことが必要なこと、とは絶対にとられないだろう。一から十まで賞賛されるべきこと、とは言わないまでも、大体は献身的な科学者の物語として語られるのではないかと思うし、私の知る限りでは実際そうである。その後の冷戦下の核開発にしてもそうで、こうした軍事面での科学者の協力に関してかの国の文献は非常に淡々と記述しており、倫理的判断をにじませていない。スターリン体制への協力に関しての倫理的評価は議論されても、軍事研究そのものに際してはそうではないのだ。それはやはり、ソ連が第二次大戦の「被害国」(一応は)であり、1941年までに国防上の準備が不十分であったからこそ破壊・悲劇が多く起こったという感想をロシア人が一般に抱いているからであり、そして冷戦下ではただ一国、だれにも頼ることなく世界一の大国と対峙し、国防事業を推進していかねばならなかったからであろう。
 彼らの倫理的基盤には、サハロフのような例外はあるもの、確かに世界市民的発想は希薄である(核兵器が持つ恐ろしい破壊力・非人道性に対する彼らの理解は、低くないように思うのだが)。また、対独戦とその勝利に至るまでの経験が、戦争に伴うあらゆる犯罪を糊塗する・そして軍備拡張を正当化する道具として用いられていたこと(言論への抑圧的傾向とあいまって)も確かである。このことは「遅れ」ととらえることも可能かもしれないが、かの国の歴史を考えれば声高に非難できるようなものでないとも思われる。

 もうひとつ、おおざっぱにいって、科学者の二つのパターンとして、実践的課題に積極的に取り組んだ「手を汚した」人物と高踏的な問題にのみかかわろうとした「手を汚さなかった」人物がいること、そして当然と言えば当然であるが、前者に対しては毀誉褒貶が激しく、後者については神格化がなされやすい、ということも感じた。ソ連でいえば前者にはセルゲイ・ヴァヴィーロフやクルチャートフが、後者にはランダウやギンズブルクが相当するだろうか(日本人に関しては、怖いので具体的人名は書きません。各自のご想像に任せます)。そして、前者のような科学者になることは権威主義的体制との馴れ合いのごときリスクを引き受けることでもある。そうはいっても、個々の行動について詮索しないあらかじめの倫理的判断を下すとすれば、前者・後者の優劣という次元での判定はできない、とも考える。これはおのおのの科学者がまとった(おのおのの科学者に内在する、とは言わないが)性格の問題である。また前者のタイプが何か倫理的に見て怪しい行動に「手を染めて」しまったり、そうした態度を取ったからといって、後者のタイプの「手を染める」ことをしない・しようとしない態度が容認できるかどうか。これはまあ、時と場合による、としかいえない。
 力を持てば持つほど、罪の深まる可能性が高まる。これは個々人に関してだけでなく、人類全体に関しても言えることだろう。しかし持った力を適切に使わないこともまた、罪でないとは言えない。

 ちなみに核兵器開発にからんだ科学者に対する倫理的判断を巡っては、実際に国際会議が21世紀に入ってから広島で二回行われており、各国の専門家(科学者・科学史家)が討論している。その様子は一冊の本にまとめられているので、上述したような問題に関心を持つ人はぜひぜひ、お読みください。私もこの本の編纂にかかわっているのだが、今に至るまで全然売れていないらしく、悲しい思いをしているのです。最後、京大ドキュメンタリーの人気に便乗する形で宣伝させていただいた。

“戦争と科学”の諸相―原爆と科学者をめぐる2つのシンポジウムの記録 (丸善叢書インテグラーレ、2006年)

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