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zoom RSS 博士課程を振り返るその二

<<   作成日時 : 2010/05/20 06:21   >>

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(続き) 修士論文を書いて提出したのは2003年1月だった。この時点で私が興味をもっていたのは、主として、ソ連の科学技術政策だった。とりわけ、1930年代にいかに科学者集団が、科学の存在形態に関するソ連政権の基本的理念と、科学を取り巻く社会的・政治的状況の変化に(両義的に)対応していったのか、ということに興味があった。1936年の一つの典型的な大規模な集会を取り上げ、その史料を読み解きながらこのテーマに接近する、というのが私が修士論文でやったことであった。
 口頭試問の反応からすれば、こうしたテーマ設定と私の史料に対する接し方はそこそこ好評だったように思う。そうした半端な成功体験のためもあってか、数カ月は気が抜けていた。今の抜け目ないD1であれば、どこかへの論文投稿について、あるいは学術振興会特別研究員の申請などについてすぐさま対策を練るのであろうが、私はそういうことに当初無頓着であった。経済的なことについては、育英会から奨学金を引き続きもらえるからいいや、というような気でいたのだと思う。まったく世俗的でなかった、というか、呑気なものである。
 4月から、同じ学年の院生を誘って、Loren R. Grahamの”Between Science and Values”という本を読み始めた。これはたぶん一年続いたのではないかと記憶している。特に深く考えた文献選択でもなかったが、本の内容自体は―多少古臭いところもあれど―興味深かったし、院生同士の交流の場としては有益だったようだ。ただ、次につながるような何かが生まれた、という気がするかというと別問題なのだが。
 4月か5月に、とある場で、当時の指導教官の先生から、研究室で出している(一応査読つきの)紀要に論文を書かないか、という誘いを受けた。迷ったが、ものを書いて発表しなければ学者としては認められない、というのはいくらなんでもそのころには承知していたので、やってみることにした。6月、神戸の学会に出席し、その場で先生に執筆の意思を伝える。テーマとしては、修士論文そのものではなく、科学の計画化という、時代状況の後押しをおおいに受けていた(そしてソ連政権が支持するものでもあった)特定の概念に対する、ソ連の代表的な物理学者の接し方、という軸をそえ、一ヶ月ほどで書いた(論文A)。
 しかしまあ、書くことがさほどあったわけでもなく(一応そこで提示したメインの主張は、これまでだれも言っていないことではあったと思うが)、投稿論文の文体や形式をわかっていたわけでもなく、執筆に苦しんだのを今でも覚えている。実際、苦しげな論文になった。今でもなお、この処女論文には大きな穴があることもわかっており、読み返す気も起きない。ただ、この作品には下で述べるような問題意識・設定も含まれており、そうした意味合いはあると思っている。
 ともかく、論文Aは査読を経て、8月だったか、掲載が決定した(翌年初めに出版)。その時は意識しなかったが、D1の時点で曲がりなりにも査読を経た論文をもっている、というのは、対外的にも自分自身の精神的にもきわめて大きなアドヴァンテージとなりうるものであり、その意味で、多少無理してでも書いて投稿した意味は―少なくとも私自身にとっては―あった。
 ただ、この時以来、ソ連の科学技術政策一般、というテーマに私は真剣には取り組んでいない。いずれ、このあたりに立ち返ることがあるかもしれない。処女作はいつまでも書き手を縛る、ところがある。

 さてこれとは別に、8月はじめ、某研究会の夏の学校で、当時興味を持っていたアンドレイ・サハロフの軍事技術そして平和運動に関するモチベーションの持ち方に関する発表を行った。私の発表はノーベル賞と科学、というそのコロキアムの問題設定から幾分離れていたような気がするが、珍しがってはもらえたようだ(口頭発表A)。サハロフの生涯と思想については、その後も折に触れて考えてはいる(別段オリジナルなことが言えるわけではなく、論文化・文章化はまだしていないが)。ちなみに、このときにもそうだったが、当時から今に至るまで私は日本語の口頭発表の際にも完全読み原稿をあらかじめ準備しておくのを常としている。この手段は、思考の綿密さ・繊細さを鍛える上で、まんざら役に立たないでもない、といってみたい。

 秋以降、私は、スターリン時代のソ連科学史の中でもはや解決済みとみられていたある主題に取り組むようになった。物理学に関する哲学的論争である。修士時代、私は、この領域についてもはや興味深いことは残されていないように感じていた。実際、二次文献を読むに、これは単に最新の物理学の成果についていけない遅れた連中が妙ないちゃもんを物理学者たちに投げかけた、それだけのことに過ぎないように解釈していた(そしてこの理解も、決して全面的に間違っていたわけでもない)。しかしどういうわけだか博士課程に進学したその頃、私はここに心ひかれた。修士課程では十分読み込めなかった、この分野に関する二次文献も、この年暮には改めて読み、そのうちの一つは日本語に翻訳し始めた。で、とある先生からの誘いを受け、12月に某所で発表をすることになる(口頭発表B)。
 結果的に、この発表は失敗だった。私自身の考えはまとまらず、単に二次文献で言える範囲の、退屈な、局所的な事例を並べただけに終わり、聴衆の理解も得られなかったと思う。しかしこの失敗はいい糧になった。
 2003-2004年の正月休み、上述した二次文献の翻訳をして過ごした(翻訳A)。これは数年後に見直して、そのひどさに我ながら呆れる、といった体の翻訳だったが、鍛錬にはなったと思う。

 2月、ロシアへの留学計画を立てるが失敗。自らのうかつさを思い知る。しかしまあ、人間は学習する。それから5年以上経た今は、さすがにあの頃よりは、事務処理能力において多少はましになっていよう。だから私は今でも、若い人の場合、事務処理能力に関しては仮にそれが不足していると感じてもただちに責めることはするまい、と思っている。

 3月、とある先生に誘われ、はじめてロシアに研究目的で、二週間旅行した。アルヒーフに行き、何人かのロシア人研究者とも会う。そのほか、このあと今までずっとお世話になっている中国地方の某先生にも、当地にて面識を得た。ここで、ロシア語会話能力の涵養の必要性を痛感する。
 モスクワのホテルで、とあるロシア人研究者に自身の関心―スターリン時代の哲学論争―を伝える機会を得た。ただ、反応は思わしいものではなかった。そういった主題はもう十分研究されているのでは、というのが基本的反応で、彼女との会話を仲立ちしてくれた某先生もその意見に傾いておいでのようだった。しかし、どういう動機だったのか私自身はっきりと思い出せないのだが、帰国後、私はこのありがたい忠告には従わなかった。この意固地さが、その後数年間の自分の方向性を決定することになる。そのことがよかったのか悪かったのか、未だによくわからない。

 まあ、まとめるならば、わりに迷っていたD1の期間だった。逆に言うとあのころは迷うことが許されていた、とも言えようか。私自身、それまで留年やら浪人やらの寄り道を経験せず(できず)、ひたすら追い立てられるように過ごしてきたのが、25歳にしてようやく、迷ってもよい時期に来た、というように解放感を感じていたのかもしれない。私個人としては、この多少の迷いはその後の自分のためにプラスに働いた、と思っている。

(続く。おお、やっと一年目終了か)

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