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zoom RSS 博士課程を振り返るその四(D3の頃)

<<   作成日時 : 2010/05/22 06:30   >>

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 続けていいものか、こんなにしゃべっていいものか、そもそもだれも関心はないのではないのではないか、といった数々の疑念に苛まれつつ、続けている、この「博士課程を振り返る」シリーズであります。第4回目。

 アクセス数を見ると、不思議と他のエントリーよりも読まれているようだ。私の論文そのものよりも、論文を書いたいきさつのほうがよく読まれる、のかな(苦笑)

 ともかく、騎虎の勢いで自分語りを続ける。博士課程三年目、2005年―2006年の頃についてだ。

 このころは単に研究上というにとどまらず、生活においても色々な試練というか転機があった。小泉時代の狂騒は頂点に達し、9月にはついに、おそらく日本史上でも他に類例を見ないほどの茶番選挙がおこなわれ、私は心底、日本の大衆民主主義に対する絶望感を味わった。科学史関連業界では、隣接領域、と言えるのかどうか、一般市民との科学に関する対話を行うべし、といった―それ自体は異論ない、ただし、必要以上のリソースをこれに注ぐことに関しては疑問が残らないでもない―スローガンが跋扈する領域が大手をふるっていた。こういった「大衆の反逆」(オルテガ)とでもいうべき言葉に象徴される社会的状況を憮然と眺めつつ、そしてそれにいくぶん反発しつつ、私の研究生活も続けられていた…
 と言えば、まあ、かっこよくまとまりますな(笑)。

 2005年前半は極めて不調だった。論文Bを紀要のために書きあげた1月から半年以上、私は、何も学問的文章を書かず、口頭発表もしなかった。この低迷にはいろいろ理由があるのだが、その諸理由の多くはこの場では言いたくないので、略す。
 とはいえ何もしていなかったわけではない。複数の大学にわたる人員を抱きこんだ読書会を主宰していた。主として20世紀をやっている人たちをたきつけ、ナチ科学の研究で有名なMark Walkerが編集した、確か2003年出版の論集、Science and Ideology - A Comparative History を題材に選んで、一週間か二週間に一回、会を開いていた。
 そのほか、史料翻訳もしていた。この年初めに書いた論文(論文B)で扱った主人公、セルゲイ・ヴァヴィーロフが1940年に書いた、原子論や物質概念の歴史に関する講演である。誰から頼まれたというわけでもなく、とにかく自分にとって面白かったのだ。ヴァヴィーロフのソ連政権へのリップサービスといった微妙な政治的駆け引きが垣間見れることもさることながら、原子論その他に関する説明の仕方が、実に鮮やかだった。私はもちろん、科学史をやる人間として、それまでも日本語や英語で原子論史に関する概説などは読んだ経験はあったと思うが、このヴァヴィーロフの説明の仕方は、今まで見てきたそれとは全く違う発想に基づいた、実に知的にスリリングなものであった。
 翻訳が一通り出来上がった夏、ちょうどそのころ原稿締め切りがある学内紀要に出してみた。史料翻訳という原稿の種類はそれまでに例がない、等の理由でこの翻訳は突っ返された。しかし、幸い、この年からの指導教官になってくださった先生が編集員を務めるとある学会誌に、掲載してもらえることになった。原稿を手直しして提出したのは秋だったと思う。
 
 しかしまあ、翻訳にはとにかく苦労した。完成出版できたのはひとえに、上述した先生のおかげであると同時に、このテキストに対する自分自身の思い入れのおかげである。ついでながら後輩に忠告しておくと、人文社会系の大学院生の皆さん、先生に何か下訳を頼まれたりすることもあると思うが、対象となるテキストはよくよく眺めたほうがよい、そして、数十時間を費やすに足るほど自分にとって面白いそれかどうかを吟味するべきである。与えられたテキストが自分にとってそれほどのものではないと思えたなら、全力で、あらゆる手段を使って、その翻訳事業から逃げることをお勧めする。人生は、興味ない文章の翻訳に数十時間を割けるほど、長くはない。

 話を戻す。7月には北京での国際科学史・技術史会議にも出席したが、発表したわけでもなく(そもそも参加自体、直前に決めたものだった)、学問的にはたいした思い出はない。唯一印象に残っている、キルサーノフ氏(確かこの会議全体のチェアーでもあったのではなかったか)のソ連のとある有名な科学哲学者に関する講演は、翌年、ロシアの科学史雑誌に掲載され、私もこれからたぶん述べるであろうある自分の論文で援用させていただいた。キルサーノフ氏は2007年か2008年に亡くなった。合掌。

 きっとこの不調の時期、何も書かない間にも史料読みなどは進めていたとは思うのだが、何を読んでいたのやら、そして何を考えていたのやら、どうも思い出せない。

 10月以降、それまで低迷していた研究活動は復活し、数ヶ月間にわたって活発化した。復活のきっかけはあったような気もするが、安易にこれだ、ということは今は控えておく。
 論文Bを改稿して学会誌に投稿する(論文C)ことがまず当面の仕事として設定された。最終的に、12月初めごろに投稿したように記憶している。このほか、国際シンポジウムのテープ起こしというか、通訳の間違い直しのような仕事も頼まれてやった。また、このころ初めて、学会誌から書評を依頼された(書評B)。正式な依頼時期・提出時期をどうも思い出せないのだが、ともかく、この書評は翌年6月に刊行された学会誌に掲載されている。12月に行われた大学のゼミでは、門外漢である生物学の、思想史的側面に関して、無理やりソ連と結び付けて発表を行ったりした。また、翻訳Bの手直しもしていた。
 これだけのことを2005年9―12月の数ヶ月間のうちにやったのだ。今から思うと不思議ではある。元来活動的でない私にどうして短期間のうちにそういうことができたのか。人間、そういう時期もたまにはあるものなのだろう、という程度の馬鹿みたいな感想しか、今は出てこない。
 ちなみにこの時期に日記をWeb日記から今日のブログの形式に移行させたのだが、当時のブログを読み返してみると、よくもまあ、と思うほど、あのころは学問に対して真摯に取り組んでいたように思う。その情熱に支えられてのこの仕事量、というところは確かにあるだろう。今は…当時に比べれば堕落したかな。

 1月、翻訳B―書評B―論文C―セミナー発表を一通り片付けた間もなく、私は論文Dに取り掛かり、3月ごろ完成させ、先述した読書会の席上に提示した。この論文は実証面において歴史学の論文としての水準を満たすものには至っておらず、いまだどこにも投稿していないのだが、4年を経た今でも、アイデア自体は悪くないと思っており、何とかして日の目を見させてあげたいものだとの、多少の未練を有している。この論文の中身は、部分的には博士論文にも取り入れている。

 そういえばこの学年の10月末に、学術振興会特別研究員DC2に採用されたとの通知が来た。通るとはまったく期待しておらず(当時学振DCの採択率はまだ低かった)、当初、通知を受け取ったあともしばらくは、この身分の期間ともらえる金額とを誤解していたほどであった。ともかくラッキーなことに、翌学年から二年間、生活費程度は心配しなくてもよい身となった。
 
 3月、論文Cのアクセプト通知がようやく届いた。二人の査読者による評は、実に真剣で的確で、勉強になるものであった。この論文の公刊に向けて、それ以降一ヶ月間、私はこれ以上ないほど必死に取り組んだ、と記憶している。

 私にとっての一番の迷いの時期、そして転換点となった時期を挙げるとすれば、それはこのD3の一年間だっただろう。結構危うい時でもあったように、今からしてみれば、思わないでもないし、前半期のブランクは痛かったが、不思議にも私は乗り越えられた。それは、私がもつ何らかの力のおかげであった、というようにも思えないし、かといって、よく人が儀礼的に言うように、皆さんのおかげだった、というようにも正直、思えない。妙なものである。

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内 容 ニックネーム/日時
書いてください。楽しみにしてます。
だいご
2010/05/25 00:39

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