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安藤昌益はなぜこの地で

2011/07/13 19:57
 八戸に来ている。ここに来た第一の目的は、江戸時代にこの地で活躍した思想家・安藤昌益の足跡をたどることである。
 昌益の(ちなみに不思議に思うのだが、日本の思想家って下の名で呼ばれることが多いですね。中国の思想家が多くの場合姓名あるいは通称で呼ばれること、近代以降の西洋の思想家がだいたい姓のみで呼ばれること、を考えあわせてみると面白い。)名を初めて知ったのは、90年代に広く読まれたヴォルフレンの著書『人間を幸福にしない日本というシステム』の中であったと思う。ヴォルフレンはこの中で、自由や平等といった概念は普遍的であって西欧に特有のものではないことを示す証拠として、江戸時代に、外国とは隔絶されたところでこれらの理念を育んだ思想家、昌益の名前を挙げていた。この著書の主張はともかく、昌益が八戸という地方においてこの思想をひそかに発展させていたということ、さらには、彼の思想は人間社会に関するものにとどまらず自然にも及んでいた、というよりむしろそこに彼の本領があったらしいことも、私の興味を惹いた。しかし数年間、私はソ連科学史の専門家となるべく博士論文に集中せねばならず、日本を長期にわたって離れていたこともあって、昌益に関する興味は、自ら寝かせておいたままであった。今年になって日本に帰り、旅行する時間の自由も得たこともあり、せっかくだからということで八戸を訪ねたのである。
 八戸の市街そのものには、ここがかつて城下町であったことを偲ばせるようなものは少ない。昌益の家なども現在の繁華街近辺にあったようなのだが、今では見る影もない。しかし、第二次世界大戦後の昌益ルネッサンスにより、この思想家の足跡と全貌を明らかにしようとする人々が多数現れ、また彼ら・彼女らの努力と情熱は並々ならぬものがあったようで、数年前、安藤昌益資料館が八戸の中心街にオープンしている。今日私も訪ねたのだが、酒蔵の一角を借りてのこじんまりした展示場であることが何やら微笑を誘う、貴重な史料―その数は必ずしも多くない―の数々と、今までに著された研究書が多数並べられている、素朴な温かみのある場所であった。今は解説も不足気味でやや雑然としてはいるが、今後、よりまとまった、堂々とした博物館に発展していくことを期待したい―それだけの価値がある思想家であるように思う。
 幕藩体制の中で平等思想等、相当にラディカルに見える考えを説いた安藤昌益を産んだ八戸という土地の特質はどこにあるのか、それを見極めたいとも思ったのだが、鈍才の哀しさ、現代的に塗り替えられた街並みを二日ほど見て歩くだけではとてもその疑問に対する回答は得られなかった。ともあれ、毀誉褒貶激しい、また、発見されてからたかが百年しかたっていないことなどの故に研究者たちの彼を見る目の客観性もまだ研ぎ澄まされていないようである、この思想家のことは、今後も気にかけていこうと思っている。私は当分彼を専門にする気はないが、もし老後という、現代日本では望むのが大変な贅沢となりつつあるものが幸いにして自分に許されることがあれば、それを彼の本を読むことに捧げるのもいいか、と漠然と思っている。
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最北の被災地を歩く

2011/07/13 19:19
 八戸に来ている。昨日午後、沿岸部を見てきた。鮫駅周辺―八戸市中心部から電車で十分ほど行ったところである。
 ここに来るまでは、未曾有の大災害の被害をこうむりがらも4ヶ月もたった今となっては、復興ぶりがこの地にも着実に見られることを、どこかで期待していた。復興ぶりを見て、震災の深刻さに関して高をくくることができれば、と勝手な願望を抱いていたのかもしれない。しかし、その期待は見事に裏切られた。漁港の修復は遅々として進んでおらず、被災ぶりの深刻さは到底高をくくれるようなものではない、これが私の結論である。
 駅から歩いて数分、漁港に入ってまず目がついたのが、崩れたまま野ざらしにされている食堂であった。木造の建物は傾いたまま、誰からも見捨てられているかのようだった。鉄筋コンクリート製の建物にもあちこちにひびが入ったままであり、表札は剥落したままである。
 漁船は何艘か岸につけてはある。しかしいかんせん素人の哀しみ、これらの船が震災以前と同様に働けているのかどうかは、見ただけではわからない。
 沿岸部から道路を一つ隔てたところに小さな食堂を見つけた。入って話を聞こうかと思ったが、営業はされていなかった。中をのぞいてみたところ、机やいすも撤去されているようである。この家のほかにも、修繕中と思しき家がそこここにみられる。木造の観光案内所などは、見るも無残に、骨組みと壁の一部だけしか残されていない。中にあったものはみな、流されてしまったのだろうか。
 海水浴場にも人影はさほど見られず、しんとしている。しかしそんな中、騒がしい場所がこの近辺にも残されていた。ウミネコの繁殖地、蕪島である。この日まで、私はこのカモメに似た海鳥の保護区がここにあることを知らなかった。蕪島は、島とはいっても今では陸地と地続きになっており、小高い山のようになっており、神社があり、頂上からの眺めはなかなかのものである(ただし次に述べる事情により、その景観を落ち着いて楽しむことは難しい)。このあたりに近づくほどに、ウミネコのけたたましい鳴き声が聞こえてき、あたりは鉄工所のごとき喧騒に包まれてくる。あとで近くの水族館に行って見てみた展示によると、夏は南方から帰ってきたウミネコがここに大集合している時期で、その数は何と三万匹にも及ぶそうだ。ヒッチコックの映画「鳥」に、鳥の大群の描写が出てきて我々の恐怖をあおってくれるが、それを地でいったものと思っていただければいい。鳥に対する恐怖感がさほどない私でも、神社の裾、階段、境内の至るところにウミネコがたむろし、騒ぎ立てているところを、かき分けしてのぼっていく中にあっては、若干の恐怖を覚えたほどである。いや、恐怖というより、もはやここは彼らの場所であって迂闊に人間が足を踏み入れてはいけない、という畏れとでも言おうか。
 今年は、この地域にとっては、言うまでもなくイレギュラーな年であり、そして、以前のような形にこの地域が戻ることはひょっとするともはやないのかもしれない。しかし、レギュラーなものを象徴する存在として、ウミネコたちがいた。無論、ウミネコとて純粋な自然ではありえず、人間による環境への工作の助けを借りてここに集い繁殖している以上、人間界を襲った災害から自由ではいられないだろう(人間界の被害のために彼らいつもよりも繁殖しているのか、それとも打撃をこうむっているのか、影響の方向性は私は知らないが)。しかしともかく、気の滅入るような人間界の状況に比べれば、ウミネコの社会(?)は元気であり、変わりがない。彼らを眺め、不易のものに思いをはせることが、元あったものの回復と我々の安心にプラスに働かないとどうして言えよう。津波という、その突発的力によりわれわれに激変をもたらした自然は、今度は、相変わらず集ってぎゃあぎゃあと騒ぎたてるウミネコを遣わすという、周期的な、安心できる力により、我々人間による安定の回復への手助けをしてくれるのかもしれない。
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