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zoom RSS 歴史研究で行き詰まったら

<<   作成日時 : 2005/12/05 23:46   >>

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 今日はゼミ発表の準備などのほか、図書館のマイクロ資料室にこもってとある雑誌(ソ連共産党の機関紙)を数年分、隅々まで洗っていった。意外に面白い史料が多数見つかり、時間ぎりぎりまでいろいろコピーしていたら、終わったあとカウンターで130枚印刷しましたね、と知らされた。まさかそんなにたくさん、と思って聞き返したが本当にそれだけコピーしたらしい。260ページ分か。全部精読するわけではないにせよ、宿題がまた増えたな。

 ところでこのブログを見ている人の中に歴史研究者を目指す人もいるかもしれないので言っておくと、一次資料を今日の僕のように徹底的に洗うのは、先行研究の蓄積に押しつぶされそうになったときとか、何をすればいいのか分からなくなってきたときなど、精神衛生上有効であることを請合える。自分のやろうとしていることにすでに先行研究が存在する場合、何せそうした研究はたいていは経験豊かな歴史家によって書かれていたり、日本人が使えない史料を用いていたりして、とても俺/私なんか駆け出しの人間の入る余地はない、と圧倒されがちだ。そもそも論文として印刷されるぐらいのものはそこそこまとまった論理的に一貫したストーリーに仕上がっているのは当然で、穴がなかなか見つけにくい場合だって多かろう。研究書で言及されている史料をいくら集めても大して異なるストーリーは出てこない。個々人の性格にもよるが、こうしたとき無力感に襲われ、絶望的な気分になることも珍しくはないかもしれない。
 そんなときは研究書や、ばらばらに集めた史料を読むのをいったんやめて、自分が使うであろう一次資料(史料集ではなく)を隅々までしらみつぶしに見ていったらどうだろう。たとえば自分のテーマに関連する史料が多数含まれていそうな、先行研究でも言及される頻度の高い雑誌の目次を何年間かぶん、すべて見てみるのだ(日刊新聞だと大変だが^^)。意外と、名の知れた研究者でも見落としていたりいい加減にしか言及していない重要な史料が見えてきて、自分なりのストーリーが組み立てられないでもない。あとこうした作業をやることから得られることとして見過ごせないのは、一次資料におぼれることによって、その時代の雰囲気というか、趨勢を自らの肌で(ではないが)感じ取ることができる、ということだ。自分で改めて歴史記述をする段階で、無用な時代錯誤(今日の目からばかり歴史を裁断する)や先行研究が陥っていたバイアスを避けられる可能性が高まる。

 これだけは自分がほかの誰よりも理解しているという事項、これまでのどんな偉い学者もしっかり見ていなかったことが自分には見えている、という事項を持つことは、研究者にとって何より大事な精神的支えになるのではないか、と思う。それはどんなに些細なことであってもかまわない(独りよがりでさえなければ)。研究生活は頂上の見えない厳しい道のりだが、そうしたささやかな誇りをもてればずいぶんと気が楽になれるし、たとえ人からはすぐに評価されなかったとしても、心の余裕を少しはもてるのではないか。
 そうしたとき、学究の徒は、自らの身に厳しくのしかかるだけであった学問を少しは楽しめるようになっている、かも知れない。
 僕も早いこと学問を心から楽しめる段階にたどり着きたいものだ。

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