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zoom RSS 博士課程を振り返るその五(D4の頃)

<<   作成日時 : 2010/06/15 04:56   >>

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 何とはなしに中断し、何週間もほったらかしてしまった「博士課程を振り返る」シリーズ、またなんともなしに再開してみることにする。別にきっかけはない。全く個人的な回想(?)にすぎないので、御用とお急ぎの方は読み飛ばしてください。

 さて今日回想するのは、D4のころについてである。
 翻訳Bの出版がまず第一のイベントだったような記憶がある。これは公式には前年末の刊行ということになっているが、実際に出たのは―私の校正が最後まで手間取ったせいも部分的にはあって―たぶん4月か5月ではなかったか。今に至るまでこの翻訳はほとんど誰の注目も浴びていないが、個人的には大変苦労したもので、翻訳の対象が自分なりの研究の方向性を見定める上で有益な史料だったこともあり、思い出深い。一年ほどのちだろうか、とある尊敬すべき先輩(ヘーゲル研究者)から、読者のためを思って日本語を練っているのがよくわかる、と言われた時は大変うれしかった。
 さて、4月前半は論文Cのリライトに奔走していた。上旬に確か祖父の法事があって田舎に行ったが、その行き帰りの電車の中でも頑張って見直しを繰り返していたような記憶がある。出版されれば日本科学史界における自分のデビュ作になるわけで、その緊張感は当然と言えば当然ではあるが。
 レフェリーの修正要求は―一応、アクセプト扱いではあったが―論文の構成そのものにも影響してくる、決して易しくはないそれであり、作業は必然的に厳しいものとなった。
 並行して、4月下旬に、某セミナーで実に久方ぶりの口頭発表を行うべく、準備していた。扱う対象は小さく、とあるソ連の哲学雑誌におけるちょっとした論争を扱ったものに過ぎなかったが、ともあれ誰も今まで指摘してこなかった事例であるということに加えて、ソ連体制というかイデオロギーと知識人階層とのかかわり合いという視点からして見過ごせないそれであるところから、発表に踏み切ったのだ(確か引き受けたのは二か月ほど前のことだったと記憶している)。論文Cのリライトと並行していたわけで、必ずしも十分な時間と精力を注げたとも思えないが、それでもとにかく発表原稿を準備できたのは、恐らく関連資料をずっと前に読み込んでいたからであろう。それがいつのことだったのかは正確には思い出せないが、まあともかく、それまでの蓄積が利いてきた、ということであったのだろう。
 この口頭発表を終えてから一週間ほどはあえて何もしない休暇としたように思うが、5月末には科学史学会での発表が迫っていた。テーマはエネルギー保存則に関する論争であり、多分この5月に泥縄式に―史料そのものだけでなく、この法則にかかわるもろもろの背景も含め―勉強したように思う。
 この発表は私の研究において一つの転換点になるものだった。それまでの政治的社会的な分析からは一歩離れた、より論争の対象そのものに肉薄した、哲学上の分析を加えようとしていたからだ。この視点をいつから意識し出したか、はっきり覚えていないが、おそらく翻訳Bをやっているころからではないか。ともかく、スターリン時代の哲学イデオロギー論争を見るにあたって、これがまったく科学上・哲学上の意味をもっていなかったとする従来の(私に言わせれば安易な)観点に対しては、一次史料と接する中でおそらく前年ごろからすでに疑念を覚え始めており、その疑念をまとまった形で初めて表出したのが、この5月の発表だったのだろうと思う。
 むろん、疑念を表明する、というだけではなく、建設的な議論を行うよう心がけた。このころ、ようやく私はソ連での物理学イデオロギー論争に関して、政治史的・社会史的次元にとどまらない分析を加えるという姿勢に基づいて接するようになったのだと思う。そして、傲慢な言い方を許してもらうならば、これは、同分野を研究してきた今までの専門家も、必ずしもとってはこれなかった姿勢ではないだろうか。
 発表の間もなく、私は、4月のセミナー発表の原稿をもとに、10日ほどで小論文をまとめ、6月半ば、投稿した。論文E(たぶん原稿用紙20枚ほど)がそれである。
 そののち、6-7月はもっぱら、5月の口頭発表原稿を論文にするべく尽力した。7月には我々の研究室の紀要(査読あり)締め切りがあり、これに間に合わせたかったのだ。まあ、マイナーな媒体ではあるが、これにアクセプトされれば翌年初めには論文(それも査読つきと銘打てる)がともかく活字になることが分かっていた。ひょっとすると、(すでに述べたように)前年に翻訳をこの媒体に持ち込んだところ拒絶されたことに対する雪辱を果たしたい、という気分も働いていたのかもしれない。
 7月20日前後、論文を完成させ、ともかく提出した(論文F)。エネルギー保存法則に関するかなり微妙な哲学上の考察をも含むものだった。こうした問題に現代の自然科学者はあまり興味を示さないが、私自身は―この論文が持つあらゆる欠点にもかかわらず―今なおアクチュアリティーをもつ、興味深い歴史上の論争を扱えたのではないか、と今でも思っている。
 この論文は、私自身提出した時点でそうなるであろうと感じていたことだったが、かなりの問題作であった。8月に返ってきた査読者の意見では、力作であるとは認められたものの、根本的な次元での疑問がいくつか突き付けられた。これについては9月にさんざん悩んだ上で、改訂を施した、というように記憶している。
 さて9か月近く緊張した研究生活をつづけたせいか、論文Fを提出したのちはしばらく、気が緩んでしまった。8月に札幌は北海道大学に2-3週間遊学した(北大には、全国有数のロシア関連の資料がそろっているのでそれが目当てだった)が、これが果たして研究上何か有益であったかどうかというと、心もとない。何人かの研究者との交流は持てたし、いい思い出にはなったが。加えて、東京に帰ってきた8月下旬から9月上旬にかけては、引っ越しの準備に忙殺されていた。これは自分の発意に基づいた引っ越しではなかったこともあり、かなりいやいややっていた、消耗させられるものであったような記憶もある。9月中旬にはロンドンで開かれたとある科学史史上の重要人物に関するシンポジウムに参加したが、自分が発表するでもなし、研究にとって直接に益するものでもなかった。ただ、これから述べる論文Gを書き出す際の刺激にだけはなったと思う。
 9月末に論文Cが刊行された。
 9月下旬から10月にかけて、どうも論文EFの直し以外には何かこれといったことをした記憶がない。新居に入ったこともあり、心身共に新しい環境に慣れるのに必死だったのかもしれない。そういえば10月には体調が思わしくないので病院で診てもらったような記憶もある(この時すでに肝臓がよろしくなかったような)。
 11月初めだったと思うが、これではさすがにいかんと思ったのか、私は具体的な博士論文の執筆に向けて動き出すことを決意した(逆に言うとそれまでの3年半は博士論文執筆というような発想を全く持っていなかった、ということでもあるのだが)。手始めに、書きやすそうなところから書こう、ということで、それまでも調べていた、9月のロンドンシンポジウムの主題でもあった科学史史上のとある重要人物(史を二回重ねているのはタイプミスではない)に関する論文を書き始めた。これが論文Gである。
 なぜかこの論文の執筆は手間取った。ひょっとすると、主要論点のひとつがとあるロシア科学史の大御所―私がもっも敬愛してきた研究者―に対する疑念表明であったために、執筆に際しておじけづいていたのかもしれない。
 多分この秋から冬の頃だと思うが、とあるソ連の科学哲学者による、宇宙論に関する注目すべき―と私は少なくとも思っている―論稿の翻訳を開始したような気がする。やや記憶があいまいだが、これ以降二年ほど、私はそのような暇をもっていなかったはずであるし、だとすると多分この時に基本的な作業については手掛けていたのであろう。これが翻訳Cであり、これは博士論文の付録としてのちに収められることになる。
 年明けて2007年2月半ば、論文Gはともかく形になり、とある研究会の席上で発表された。反応はまあまあと言ったところ。その席で一ヶ月後の関西で行われた別の集会でも発表するよう勧められ、私はそれに従った。しかし、論文のテーマとした当の人物に関する専門家をもって任じていた人がその場にいたことが、この時の私の発表に災いした。私は論文Gを日本語で発表するのはしばらく控えようと思い、現在に至るまでそうしている。英語やロシア語で発表することに関しては、まんざら野心がないわけでもないが。

 この年度、1月に論文Fが刊行され、最後の3月末に、論文Eが刊行された。

 この年度は、余談だが私が音楽活動を最も熱心にやっていた時期でもあった。前年度2月、私は自分のかかわる中心的な音楽団体であるアニムス・クラールスの団長(運営の長)に選ばれた。妙な人選、と戸惑ったものである。私にはともかく事務処理能力がなく、いろいろ団員の皆さんに迷惑をおかけしたことと思う。
 10月ごろから2月ごろにかけて―論文Gを執筆していたころ―、私は阿呆のように音楽活動に邁進していた。一時は5つの団体を掛け持ちし、週末になるたびごとにチェロを抱えてはあちらこちら行き来していた記憶がある。多分、これから述べるように、2007年にはロシアに長期留学するであろう、それ以降も博士論文の執筆に集中せねばならないだろう、音楽活動に没頭できるのもこれが最後、と思い定めたからかもしれない。この予測は半分当たり、有難いことに半分はずれたのであるが、ともかく、個人的生活においては、狂騒の日々であった。


 書いてみて改めて思うのだが、こんな自慢半分・自嘲半分のような全く個人的なエントリーを人目にさらすことにどのような意義があるのか、よくわからない。いや、何人かから、書いてほしいというエールのようなものを受け取ったのは確かだが。それ以外の人々に対してはどうか。このエントリーを書いたのは自己満足のためであり、それを公開するのは果てしないうぬぼれと自意識過剰という悪徳に押されてのことだ。せめてこれが、読む人の貴重な時間を奪う結果にはならないように、と願いたいが…

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