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zoom RSS 溪内謙先生の思い出

<<   作成日時 : 2011/02/14 03:33   >>

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 ソ連史研究の泰斗、溪内謙先生と初めてお会いしたのは2000年の秋、卒業論文を書いている時期ではなかったかと記憶している。当時の指導教官(まだ「教員」ではなく「教官」と呼んで構わない時期であった)、佐々木力先生に連れられ、岩波書店本社にて定期的に行われていた「ロシア革命研究会」に参加させていただき、その場で引き合わされたのである。研究会には内田健二氏、鈴木義一氏、中嶋毅氏、森田成也氏、桑野隆氏、浅岡善治氏、佐藤正則氏等々、ソ連史研究の第一線で活躍しておられる錚々たる顔触れが集まっており、ロシア革命に関する重要史料を訳出編纂した史料集を公刊することを一応の目的として、研究報告等を行っていた。
 まだ何者でもない、ソ連史研究に足を踏み入れたばかりの私にとって、一流の研究者たちの間に交じってのこうした会合は、ありがたいと同時に、率直に言ってずいぶんと緊張を強いられるものであった。研究会の席でも、その後の懇親会の席でも、当初は縮こまったままただただおとなしくしていたような記憶がある。そうした中、最年長の溪内先生は、その年輪の持つ重厚感のようなものにより、かえって最も近づきやすい対象のように感じられた。ある時懇親会からの帰り道で、研究者としての実力・方向性に関する不安のようなものを―今の私に言わせれば、こういった感情は若さゆえの無知と傲慢に起因していたわけであるが―、酔った勢いもあってこぼしてしまったことがあった。そのとき先生は、憮然とするような表情は全く見せず、「ああ、僕の若いころにもそういうことがあったなあ」と同情するような言葉をかけてくださったように記憶している。おそらく、1950年代半ばのアメリカ留学時代―E・H・カーと出会う以前のころ―のことをおっしゃっていたのであろう。先生は、実によくしゃべる―失礼!―他の研究会のメンバーの中にあっては、全般的に活発に発言するほうではなく、また、発言するにしても自身の老いに関して愚痴をこぼされるようなことも多かった。当時、先生は最後の著作『上からの革命』の執筆に従事していたわけであるが、その仕事が若いころのようにてきぱきとは進まない、というようなことをおっしゃっていた。しかしそうはいっても、先生は75歳を超えてなお矍鑠としておられたように思う。口を開くことは上述したようにまれであったが、学問的・批判的意見を吐かれる際は実に厳しく、その意見の直接の対象でない(というより対象になどまだなっていない)こちらも、背筋を正される思いがした。
 修士課程に進学しソ連科学史に関する勉強を本格的に開始した私には、読まなければならない科学史・ソ連史の基本文献は―中世史や古代史、神学、古典学におけるように山のようにあった、というわけではないにせよ―たくさんあった。その中には、溪内先生の一連の作品―『思想』掲載の諸論文、『現代社会主義の省察』、『現代史を学ぶ』等の―も含まれていた。特に、『現代史を学ぶ』(岩波書店、1996年)は何度読み返したかわからないほどである。この書物は、私にとって歴史学の方法論、歴史に対処する際の心構えの基本を説く、バイブルとなったし、今でもあり続けている。ここでは先生の主要テーマである「上からの革命」期のソ連農村における政治的転換についての論評はしない。それは私の任に余ることである。この分野においては若い世代の研究が次々と出ており、それに照らして批判され正されるべき点も多いのであろう。しかしいずれにせよ、この時期のソ連政治の―農村行政にとどまらない―変質がスターリン体制の確立を決定づけたこと、スターリン体制の確立というものが、ソ連一国の歴史はもとより、20世紀の世界史の潮流を一面において決定づけたこと、こうした基本的な歴史観については、私はまさに先生の著書群から学んだのである。
 修士論文を通していただいた直後であるから2003年の4月のことと記憶するが、私は先生に誘われて、本郷界隈のオフィスにお邪魔した後、イタリア料理店に連れていっていただいた。その際の会話の中では―これは書きとめておくに値すると思うのだが―ご自身の、知的来歴について少しうかがうことができた。戦時中も戦後も、大学の先生の誰一人として、あの戦争は間違っているとは言ってくれなかった、それに対する疑念が研究の出発点になった、という内容であったと思う。そのほか、帝政ロシア史プロパーの人間に見られる「ロシアは結局こうでしかない、発展など考えても仕方がない」という宿命論に対しては大いに違和感を感じておられること、宗教団体の思想や振る舞いに一般に不信感を抱いておられること―これは先生の出自がお寺であったことと関係しているのだと思う―などをお聞きした。「人間というのは厄介なものだね、猿であれば持っていないような、未来に対する気遣いと期待をどうしても持ってしまう」「晩年になると、ゲーテもそうだったらしいが、どうも考え方が悲観的になってしまう」といったお話も印象に残っている。そう書くと何だか暗い話ばかりをされたように思われるかもしれないが、そうではない。これほどの大学者が、最晩年に至ってもなお、自己や他者に対する批判精神と、安寧に陥らない厳しい探究精神とを保ち続けていたこと、そのことを私は言いたいのである(この緊張感は、遺著『上からの革命』においても一貫して看てとることができる、と思う)。
 そういえば地下鉄駅前での別れ際には、丁寧な脱帽・握手をされていた。あの立ち居振る舞いはイギリス仕込みでもあったのだろうか。

 先生とはそれきり、お会いできていない。もう一度、今度は鰻をご馳走していただけるようなことをおっしゃっていたのだが、その約束は果たされていないままである。今日2月13日は、先生の8回忌である。

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